考える引き出し

小池みきがなんでも書くところ・タンゴ練習記録多め

幸せになったら書けなくなる

 初めての彼氏ができたのが28歳の時だったのだが、その際、まわりの何人かからこう言われた。
「幸せになったら、もう文章書けなくなっちゃうんじゃない?」
 それに対して、私が思ったのは以下3つ。
①彼氏ができて嬉しいくらいで書く必要を感じなくなることなら、特に世の中に向かって発信する必要はないだろう。
②私の「書く条件」に「不幸」があったとして、「幸福」になることで書けなくなるのだとしても、そこには何の悲劇も起きていないのでは。
③というか私、今まで幸せでなかったわけではないんだけど……。
 結局私は彼氏ができたあともなんだかんだ文章を書いていたし、むしろそこからの方が文章力は上がった。そして、彼氏がいなかった時・いた時・別れた後、いずれも特に「幸福の総量」みたいなものは変わっていない。
 私は、自分の「書くモチベーション」がある種の哀しみや苦痛と結びついているのは感じるが、一方でそれらが「幸福」によって雲散霧消するものだとは思わないのだ。どういう状況下でも、私はある意味いつもしんどいし、でもそれが自分の人生のクオリティを下げるわけではないことも知っている。
 だから結局「何がどうなっていても、私は自分のしたいことをしているのでOK」という感覚だけがあるのだが、「幸福になったら書けなくなるよ」と言う人たちは、何か違う価値観でそれを言っているらしい。「不幸のエネルギーで書くこと」自体に何か価値を置き、それと「平凡な幸せ」みたいなものを秤にかけているのを感じる。そういう考え方もあるんだなとは思うけど、やっぱりどうも釈然としない。
 「幸せになったら書けなくなる」と言う人の中で、「書くこと」はいったいどんな意味を持っているんだろう。やはり何かを社会的に証明する手立てということか。ということは、冒頭のセリフは実は「小池さん、あなたそのまま幸せになると社会に対して何も証明できなくなるけどそれでいいの?」ということなのだろうか。
 と、そんなことを思い出し書いたのは、今日の午前中、小川氏の文章の「政治は個人の生きづらさを救うべきじゃない」という主張について引き続き考えていたから。
 彼は文学が好きだそうで(どのくらい読んでるのかよくわからないけど)、セクシュアルマイノリティの「生きづらさ」やなんやらのこともいたって文学的に、「個人でひきうけるべきドラマ」としてとらえているらしい。私は「社会制度の改善ごときで人間の根本的な苦悩は根絶できない」という暗い考え方なので、小川氏の主張にはまったく頷けない。いくらでも便利にしようよ、どうせ人間は未来永劫悩み続けるんだしさ……と思ってしまうのであった。

 そんな今日は、夜に女三人で緊急集合の鍋会。A姉様のおうちで美味しいきりたんぽとマスカットをいただきながら、恋愛話に花を咲かせる。
 みきちゃんと合う男性はどこにいるんだろうねえ、と真剣に悩んでくれるA姉様とHさん。いや〜ホントにね〜探してるんですけどね〜〜、と白菜をすすりながら返す私。すると完全に斜め上の提案が。

A姉様「……ここはもう、小泉●次郎しかないんじゃない!?」
小池「ブ、ブフーッ」
A姉様「ほら、未来の総理大臣だし! すごい人じゃん!?」
小池「総理大臣夫人ならちゃんと補佐できる女性じゃないと、ねえ」
A姉様「みきちゃんしかいないでしょ〜〜〜!」

 いやいやいや、どう考えても私以外に無限に候補がいる!

 そんな話を延々としていたら終電を逃しかけるも、電車が遅延していたおかげでギリギリセーフ。よかった。明日はライターお茶会だ。