考える引き出し

小池みきがなんでも書くところ・タンゴ練習記録多め

生に価値がなくても

自民党小野田紀美参議院が、「義務さえ果たしていれば権利は主張していい」とツイートして燃えている。みんなで山に火をつけまくるのはやめてほしい。ところで小野田氏のことが話題になるたび「えっ、小野美由紀さんが何!?」と思ってしまって心臓に悪いので、そういう意味でも小野田氏には慎重にふるまっていただきたいところ。

彼女の意見は、義務と権利をトレードの関係だとみなしているのでもちろん間違っている。その指摘は大勢が五万回くらいしているみたいなので私は特にそれについては書かない。

ひとつ感じたこと。彼女に対する反論として「人間は生きているだけで価値があるんだ」という意見が目立つ。もちろん私も大枠としては人間の生に価値を「感じる」のだが、根本的には違う意見を持っている。というのも私は、人間にも、命にも、世界にも本当のところ特に価値はないと思っているのだ。なぜなら、「在る」ということを証明する手立てはないからである。「在る」と証明できるものなんてこの世にはない。かろうじて、己の主観みたいなものがすこーーーし他のものよりも分厚く、確かに感じられるくらいだ。でもこれだって本当にあるのかどうかはわからん。

「在る」と言えないということは必然的に「無い」ということも断定し得ないわけだが、私はともあれ「まあ究極のところ価値などないであろう」派である(今後「価値」が発見されたら発言を撤回します)。

で、ここが大事だが、私はかつ「価値がなくても別にかまわないので生きよう」派でもある。価値があろうがなかろうが、私は生きているのである。証明しようがなくても私は私を「在る」と感じるし、それを他者に全否定(殺されるなどの方法で)されたくないのである。価値と、私の生とは関係ない。だから、他者の生とも、やはり価値は関係ない。

私は個人的感覚として他人の命に価値を「感じる」し、生きとし生けるものはみんな美しい……みたいな、『火の鳥鳳凰編の我王みたいなこともわりと頻繁に感じながら生きているが、他人に「人間は生きているだけで価値があるんですよ、おわかりにならないんですか」とはあまり言う気にならない。言うとしたら「価値があろうがなかろうが生きてるんだよ」ということくらいであろうか。

そういう意味で、人間が発明し、人間に共有した概念である「人権」という言葉は素晴らしい。「人間は生きているだけで価値がある」と言えない私でも、「人間は生きているだけで人権は持つ」とは自信を持って言える。そして、人権を主張することは人間にとって必要なことだと感じる。世の中には、権利を主張しない生命体の方が好ましい、可愛がりたいと感じる人も多いようだが知ったこっちゃない。私たちはもっと人権を慈しみ、可愛がるべきだと思う。