考える引き出し

小池みきがなんでも書くところ・タンゴ練習記録多め

わかる人にはわかる

「おれはこう見えても喧嘩のプロだ。敵が近づいてくると第六感でビンビン感じるんだ」

というような、ジャイアンのモノローグがある。劇場版「アニマル惑星」に出てくるセリフ。正確な言い回しは忘れたが、だいたいの内容は合っていると思う。

とある謝罪文を読んで、私がまっさきに思い出したのはこれだった。

これはまったく理屈ではない話なので真面目に受け取ってもらわなくてもけっこうだが、私の目にはこの文章が誠意ある謝罪には見えない。匂う。計算された文章のにおいがする。

私も、こう見えても売文業のプロだ。

計算ありきで書かれた文章を見ると第六感でビンビン感じる。「掲げているテーマのために取材して書いたように見せかけて、実はまったく違う目的で書かれたWEB記事」なんかはリードの段階でピンとくるし、ライターが何かの事情でごまかした部分などもかなりわかる。もちろん、私の書いた文章も、同業者にはそういう目で見られているはずだ。

で、件の謝罪文には、もろに「誠意ある謝罪文としての体裁」を考えたあとの、焦げ跡のような匂いを感じる。

この匂いに、私はとくに敏感だと思う。なぜなら、この手の文章を昔、私も一度だけ書いたことがあるからだ。自分のためではない。会ったこともない他人のためにである。

無名とはいえないその人のために、私はその文章を書いた。どうしてそんなことになったのか、いろいろ複雑な状況だったので簡単には説明できない。自分なりに納得して引き受けたことでもある。ただ、もう同じようなことは二度としないつもりである。生涯で一度だけ、というつもりでやったことだった。

そのとき私は、自分の文章力を総動員して、「誠意」のコーティングをした。読む人が読めば絶対に、それが本物の誠意でないことはわかったと思う。でもその時私がひきうけたのは、本物を見抜く目を持つ人ではなく、それ以外の人たちを納得させることだったから、そのように書いたのである。

結果として、それは社会においておおむねきちんと機能した。ただ、あくまでメッキなりの機能だったということも添えておく。メッキの誠意なのにこんなに機能してしまうのか、という怯えと、やっぱりホンモノでない以上ここまでなのだ、という安堵と両方をそのときの私は感じた。

その感覚を今でもしっかり覚えているから、そういうレベルで書かれたもののこともすぐわかるのである。「それっぽく見えるもの」がどういうものかを、ある種のライターや、ブロガーや、活動家や、政治家はわかっている。わかって、ある狙った地点に槍を放るように書くことができる。でもそれは、わかる人同士で見ればわかる程度の行為でしかない。その言葉は、或る人間の心の中の真実を削り出すような、本当にシリアスな慟哭や歓喜にはなり得ない。

わかる人にはわかる。ものを書くのであれば、そのことだけはわかっていないといけない。あの謝罪文を読んで考えたのはそのことだけだ。