山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

2018年

日付不明。

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9時前に起きて、またも「起きたら原稿をしなければいけない」という恐怖に打ちのめされる。でも起きる。適当な朝食をつくり、「タンゴのすべて」のダンスを観ながら食べる。

昼過ぎに、神保町の喫茶店「ミロンガ・ヌオーバ」(タンゴ喫茶!)へ。ルイボスティーとメープルケーキを食べつつ、J社原稿の文字校正をしつつ、某社の編集者氏を待つ。ところが編集者氏が来ない。メッセにも返事がなく、既読にもならない。ちなみに夜になった今もなんの連絡もない。これは流石に何かあったんだろうと思うが、一体何が起きているのか。

仕方ないのでJ社の原稿校正をひたすら進める。と、その辺りでゲリラ豪雨が発生。傘を持ってきていないので暗澹たる気持ちになる。ついでに低気圧で頭もやられた。

編集者がこなかったことでA社案件はペンディング、J社の進捗50%、T案件の校了は明日になりそうとの連絡あり、そしてD案件は何も手がつけられていない、ということで頭がパンクしかけてきたので夜の予定はキャンセル。雨脚が弱まった隙をついて外に出て、日乃屋カレーを食べてから家に帰る。

 

 

 

やけ酒Night

日中、とてもむしゃくしゃすることがあり、今日はやけ酒を飲むと決める。とはいえ基本的に酒の飲めないわたくし、5杯も飲めばできあがり。

ちょうど夜、気心の知れた編集者の男の子Aくんと、とある支援系NPO代表のB氏、そのNPOに新しく入社した女の子Cさんの3人とおしゃれなイタリアンで食事をしたので、そこでビールとウォッカトニックをあおりまくり、楽しく酔っ払うことができた。ピクルス、ローストビーフ入りのサラダ、ラグーソースのショートパスタ、ブロッコリーとひき肉のパスタ、いちじくとハムなどいろいろ食べる。デザートはかぼちゃのプリン。

Cさんは、つい最近地方から上京してきたばかりである。150センチもない小柄な体躯で、言葉が思い切りなまっているのがとっても可愛い。しかし、上京する前は、地元新聞社で指定暴力団関係の記事の担当をしていたというからすごい。そこの担当になってからというもの、家にいられる時間はせいぜい3時間程度で、常に外を飛び回っていたという。警察で、押収されたロケットランチャーを見たこともあるんだそうだ。相当レアな経験値である。

上京したてでこちらに友達が少なく、彼氏を募集中だというので、持ち前のずうずうしさでいろいろ聞く。

小池「どんな人が好みなの」
Cさん「面白い人ですね」
小池「そうか」
Cさん「爆笑させてくれる人がいいんです……」
全員「それかなりだな?!」

相当な面白さが必要とされるらしい。「Aくんと付き合えばいいよ」と言っていたBさんが「それじゃAくんじゃダメだな……」と前言を撤回していた。Aくんはとてもインテリジェンスとユーモアセンスのある男子だが、他人をいちいち爆笑させるタイプではない。彼のギャグセンスはドイツ人的らしい。

Bさんから、支援系NPOの陥りがちな罠について色々な話を聞く。誰が対象であってもそうだが、「与える」系の支援は絶対に長々とは続かない。発展途上国や夜の世界のような、格差と貧困のるつぼとなっている領域に関しては特にそうだ。何も考えずに「とりあえず与える」を続けていると、結局その場所から自助努力や自浄作用の機能を奪う。かといって「与えなければ勝手にやるだろう」というのはただの放置であって状況を改善させるものではない。大事なのは、支援対象がなるべく自分たちの力で動いていけるような、そもそもの構造作りに力を注ぐことである。

この作業はとても地味だ。だからみんなやりたがらない。被災地に行ったらガレキを運び続けるより被災者に炊き出しをしたいと思ってしまう人たちが多いように、「黙々と」やらなければいけない長期的な仕事はほとんどの場合、写真で切り取ってSNSに投稿するのが容易なワンアクションに負ける。でもそこでふんばって、長期的な仕事の価値を見つめ続けている人たちもいるし、その人たちが消耗してしまわないように、私たちメディアの人間こそがサポートしなければいけないのだ。がんばろう。

酔っ払っていたこともあり、終盤はコンテンツ批評の話をしまくる。

Aくんから帰り道、

「小池さんが前にツイッターで、地方に行ったらまずそこのスーパーを見るって書いてたじゃないですか。それ、僕もすごく大事だなと思いました。東京で売ってる大手メーカーのそうめんと、僕の地元のスーパーで売ってるそうめんって全然味が違うんですよ。ローカル性ってそういうところにしっかりあるんですよね」

という話をされた。彼の地元で売っているそうめんはめちゃくちゃ美味いんだそうだ。羨ましい。食べたい。次に香川に行ったら見てみよう。とりよせることはできるだろうし、もしかしたら成城石井にはあるかもしれない。でも、あえてそういう手段を使って獲得するほどのものではない、というアイテムにこそちょっとした良いローカル性があるのだ。レモスコとか、つけてみそかけてみそとか。

終わったあと、家の近くでさらに追加飲み。でも大して酔わなかった。

私の場合、酔うとなんとなく眠くなって頭痛がするだけで、ろれつが回らなくなるとか、陽気になるとか怒り出すとか、そういった人格的変化はあまりない。だるくなり、体調が悪くなっていって、だんだん衰弱していくだけである。多分飲みすぎたらそのまま一直線に死ぬのだろう。それでも時々「やけ酒を飲んでいる」というシチュエーションを設定したくなるのは、それによって何か新鮮な感じ方が出てくるのではないかとちょっとした期待をしてしまうからだ。なおその期待はだいたい外れる。

帰宅してからずっと頭が痛かった。風呂に一時間近くつかり、水を大量に飲んでなんとか眠る。まあ、たまにはこういう日があってもいい。

青い山脈と微笑ましい話

1日オフィスにこもって漫画を描く。

絵を描いているときは、文章を書いているときと違って聴覚情報を受け付けられるので、大抵映画かドラマを流しっぱなしにしている(前に今市子のエッセイ漫画を見たらやっぱり作業用Movieを流していた)。今日はHuluで「青い山脈」を観た(画面はあまり追えていないけど)。

石坂洋次郎の同名小説が原作の「青い山脈」は、1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回も映画化されている超人気作で、いずれもその時代の清純派人気アイドルが主演をつとめている。名作と名高いのは49年版だが、私が今日観たのは63年版だ。主演はかの吉永小百合、相手役も純情路線で人気を博した浜田光夫。もうひとりのヒロインである島崎先生にも、日活を代表する清純派女優芦川いづみがあてられているし、二番手男役(ってこの書き方では宝塚だな)は若き高橋英樹ととっても豪華。このときの吉永小百合は弱冠18歳でもうめちゃくちゃにかわいい。こんな清らかな、そして健康的なメンツがあろうか……。

ちなみに私は高校時代、石坂洋次郎の小説が大好きで、授業をサボっては読みふけっていた。

石坂洋次郎は、健全かつ先進的な精神を描き続けた作家として知られている。しかし彼自身はその評価に反発も見せたという。私も、「明朗なだけの石坂洋次郎ワールド」みたいなものはまったく信じていない。彼の書くものは全て、一般庶民が、より良い人生のために模索する道程を描いているのだが、そこには時代の、政治的苦悩の声がいつも響いている。注意深く読めば絶対にわかると思う。

青い山脈」もそうだ。この物語は、ざっくばらんに言えば

「ある女子校で、生徒やPTAが『男女交際くらいいいじゃないか派』と『そんなものはけしからん派』でモメたが、もうそんなことでモメる時代じゃないよね、ということで全てが明るくうやむやになりました」

というだけの話である。しかし、私たちから見れば他愛ない「高校生の男女交際くらいいいじゃないか、微笑ましいし」みたいな結論も、終戦直後の日本人にとっては相当なパラダイムシフトだったはずなのだ。今の日本が「男同士や女同士や、その他いろいろな男女間以外の恋愛も認めた方が社会的に健全だろう」という考え方を受け入れるのに試行錯誤しているように、昭和20年の日本人も、「健全な男女交際は、人間のよき精神をなんら損なうものではない」という思想の受容と実践に苦労していたのである。

青い山脈』は、日本国憲法が施行された翌月から連載され、民主主義を啓発させることにも貢献した。また、すでに教育基本法(昭和22年法律第25号)と学校教育法(昭和22年法律第26号)も施行されていたが、『青い山脈』が連載された1947年度(昭和22年度)には学校教育法に基づく学校はほぼ皆無の状況であり、この小説は、従前の中等学校令(昭和18年勅令第36号)に基づく旧制・高等女学校と高等学校令(大正7年勅令第389号)に基づく旧制・高等学校という中で書かれている。
--Wikipediaより。

具体的にあらましを話すと、吉永小百合演じるヒロインは、男子学生との交遊を噂されたために(事実ではない)女子校に転校したという経歴を持つ。しかしその過去の噂と、また別の男子学生との新しい噂のため転校先で嫌がらせをされてしまう。嫌がらせをしている女学生たちは、「男子学生と親しくするような人がクラスメイトにいたら恥ずかしい、母校の名を汚してしまう」と騒いで、「正義」の名の下にまったく悪びれない。その争いを、先進的な考えを持つ若き女教師と、考え方が特に新しいわけではないが柔軟なユーモア精神を持つ校医の沼田がおさめていく、というのがだいたいの流れだ。

女教師の島崎先生は、「独りよがりな正義で他人を貶めることほど恥ずかしい行為はない」と生徒たちに厳しく語りかける。でも、古い考え方にとらわれた女学生たちは、そんな島崎先生も含めて恥ずかしい存在だと排斥しようとしてしまう。これはまさに、「新しい権利」が出てきたときの社会の困難そのものである。話はどんどん大きくなっていき、PTA会で保護者や教師たちが意見を戦わせ、投票によって結論を出そうということにまでなる(完全に政治)。その答弁会の中で、「交際擁護派」と「処罰派」それぞれの意見が飛び出すのだが、この時代の恋愛をめぐる議論というのは、ほぼ女性の人権問題なのだということがよくわかる。

島崎先生が、沼田医師をひっぱたいたということが問題になった時は(ひっぱたいた理由は、沼田が女性の人権を軽んじたことをアレコレ言ってしまったからである)、芸者のとらがこんなことを言って皆を笑わせる。

「女が男をひっぱたくなんて、あたしたちの世界じゃ珍しくもなんともありませんよ。あたくしどもの見たところ、お偉いさんほど女に叩かれて喜ぶ傾向にあると思いますけどねエ……」

あるいは、ヒロインの保護者を装って潜り込んだ大学生の富永が「自分は主観的な意味合いにおいては寺沢の保護者なんです」と理屈をこねる場面。処罰派の男性教師が富永の主張をバカにし、どうにか会を自分たちの思う方向へ持っていこうとしたとき、ある女教師が、男性教師の描いたとんちんかんなラブレターの文面を読み上げて彼に反撃する。

現代の人権意識から見れば問題の多いやりとりではあるが、その前の時代と比較してみると、民主主義的な前進はとても大きいのだ。

「微笑ましさ」は強い。強要すると暴力になるから「微笑ましくあれ」と言い回っては絶対にいけないのだが、微笑ましさを見つけ出し、喜ぶ精神は絶対にいろんな前進の基盤になる。

島崎先生が「そういう微笑ましいお話が、私たちの日常にはもっと必要なんだわ」と言うシーンがある。21世紀の日本にも、必要なのは真に微笑ましい話だと思う。それはツイッターで1万RTされるような「イイ話」ではなくて、日常生活の中の、お互いにしか発見し合えないちょっとしたエピソードのことなのだ。そういうものを見つけられる精神を(そして今だったら安易にSNSで消費しない忍耐力も合わせて)、私は健全と呼びたい。

 

しかし今日の私は全然健全でない。昼飯に星乃珈琲のまずい珈琲とサンドイッチを食べただけで、後は何も口にせず睡眠まで突っ走ってしまった。漫画を描き続けていたので首もおそろしく痛い。明日はゆっくりめに……。

批評家の星座

土曜日だが、原稿がまったく終わっていないのでオフィスにこもり、ひたすら漫画を描く。ほぼ日のイベントに出る予定の社長も数時間滞在。

社長と、執筆ソフトについて話をした。どのソフトを使うかは、物書きにとって大変重要な問題である。私はいろいろ試した挙句、結局Wordに戻ったくちだがWordが一番書きやすいとはまったく思っていない。重いし、マクロを組まないと細かい便利カスタマイズできないし。社長によると、EGWordの開発者が新作を製作中らしいので期待してしまう。

イベント出演のために去っていった社長の背中を見送り、夜まで粛々と漫画描き。描きながら、夕飯に何を食べようかずっと思い悩んだ。結局大戸屋でサンマを食べた。今年初サンマである。あまり醤油をとりすぎないようにしようと思いつつ、ついつい大根おろしにドバドバかけてしまう。口内炎が痛い。食べながらまた鏡リュウジ先生の本を読んだ。『アニマの香り』という本で鏡先生は宮台真司と対談している。宮台真司魚座だということを初めて知った。どうでもいい情報ではあるが、確かに魚座感がある。恋愛命っぽいところなど特に。小林よしのりの乙女座っぽさ、東浩紀の牡牛座っぽさを再確認するとともに、言論界への納得がまた深まった(?)。

今調べて見たら、荻上チキと津田大介宇野常寛蠍座古市憲寿山羊座内田樹は天秤座、佐々木俊尚と千葉雅也は射手座だった。なんというかまあ、順当である。東氏と宇野氏の痴話喧嘩には納得。

漫画を描くとかなり体力を消耗するので、腹もかなりすく。サンマ定食だけではまったく足りず、帰りにスーパーでレーズンパンまで買ってがぶがぶ食べた。が、後悔はしない。

夜、諸事情あって知人霊能者を紹介した友人から、

「みきさんが私に先生を紹介してくれたのは、私の守護霊がみきさんのことを高く評価しているかららしいよ」

と連絡がきて笑う。他人の守護霊からも信頼のあつい小池として、背筋を伸ばして生きていきたい。そんなオカルトめいた1日。

どの人間もかわいい

取材の日。格闘家に、リカバリの重要性について説明された。

彼が言うには、「疲れ切ってから回復させようとしても無駄」なのだそうだ。みっちり疲労してしまったら、あとは寝るしかないらしい。なので、疲れる前に体を回復させ、のどが渇く前に水を飲み、腹が減る前に何か食べないといけないという。テレビゲームみたいに、HPが残りわずかになったらハイポーション、というわけにはいかぬということである。私はもろにそういう風に生活してしまうタイプなので反省。

ライティングも、無理を重ねると結局効率が悪くなる。毎日のように一日中、夜中までねばって書くよりも、毎日5時間ずつきっちり集中して書いた方が、私の場合間違いなく仕上がりはいい(うちの社長のような超人は除く)。村上春樹だって日々定量で仕事を納めている。「気力が尽きるまで走れる根性」よりも、「日々自分をコントロールできる気力」の方が、歳をとってくると大事になってくる。もちろん人によるとは思うが、女性の場合は特にそうだろう。われわれは、出産適齢期を超えてもまだ山道を全力疾走できるような構造の生き物ではないのである。

「疲れ始めたところですぐさまリカバリ」をできるようにするためには、常に自分の状態を正確に把握しておかなければいけない。尿意や睡魔、空腹感にまったく気づかないというのは、まず生き物としてよろしくない状態なのである。私は自律神経がとても失調しているので、このあたりの感覚にまったく自信がない。自分の体の声にもっと耳をすませなければ。

昼はいつもの定食屋でゴーヤ飯(ゴーヤチャンプルーとご飯のみ!)。食べながら、鏡リュウジ先生の本をあれこれ読む。鏡リュウジ先生は、現代日本の知性を支える重要な柱の一人だと思う。実はめちゃくちゃアカデミックな人なのである。「占い=オカルト=インチキ!」という発想の人には、鏡先生が訳してきた数々の専門書を一度読んでもらいたいと思う。占いの歴史は、実は科学と同じで、人間の知性と進歩の歴史そのものである。今、占星術の世界の最先端で何が議論されているのかがすごく気になる。鏡先生の講演、聴きに行きたい……。

 

閑話休題

何人かと同時期に、自己肯定感について話をしたのでまた色々考えてしまった。

私の周りには、五体満足で賢くて、仕事ができて友達も多く、しっかりとした学歴を持ち、特に金には困っておらず旅行や趣味を楽しんでおり、性格的にも魅力的な女性がいっぱいいる。でもそういう、私から見れば「ふつーに素敵」と思う人たちの中のけっこう何人もが、「自分が好きじゃない」「自分に自信がない」「オワコンの人生だ」てなことを口にするのでたまげる。 

「小池さんが羨ましい」というニュアンスのことを言われることもある。多分、私がいわゆる「こじらせ」の要素の薄いタイプだからだろう。

プチ毒親持ちで、父親と死別していて、元いじめられっ子で、天然パーマ+デブ+アレルギー性皮膚炎で若い時はずっと外見ボロボロ、不健康すぎて通院三昧、高校の時は赤点女王で卒業するのがやっとで、地方の学力無用な大学出身、28歳の終わりまで男性に一度も愛の告白をされたことがなく、貧乏借金持ちなのにろくに定職にもついていない、そんな女だったわりに、私は多分あまりこじらせていない、確かに。

人生そのものは、私とてそれなりに辛かったし、今もそれなりに辛い。ただ、「自分が自分であることが嫌だ」という苦痛を味わったことは多分、生まれてから今日に至るまでほとんどない。それってなんでだろうか? 

まあ、極論を言えば「親の教育がよかった」になってしまうんだろう。自分が「親の教育」だけで出来上がっているとはまったく思わないが。

これはちょっと特殊なところでもあるんだけど、母は、私たちのことを「自分の子どもだから可愛い」と思っているタイプではなかった。うちの母は、猫の子にも乳をあげてしまう犬みたいなもので、「この世の赤ちゃんは全てかわいい、自分の全てのリソースを投げ打って愛する価値がある」という人間なのである。

そういう愛情のかけられ方について、小さい頃の私は悩んだこともあったらしい。母があまりにも分け隔てないので、3歳の私は、深刻な顔で母に「ママは、ミキタンのことが一番大事なんじゃないんだね」と言ったそうな(母、絶句)。

で、そういう「特別扱いしてもらえない悲しみ」みたいなものは長く引きずったんだけど(今もなくはない)、その代わり私も、やっぱりどの子どももかわいいと思う大人に仕上がった。

どの子どももかわいいとはどういうことかというと、その辺にいる人たちは全て、「かつては絶対的にかわいい存在だった」だと思えるということだ。もちろん、個人的に許せない相手はいっぱいいる。そもそも狭量なので、大抵の人間のことは嫌いかどうでもいい。でも、「生まれてから死ぬまで一度も愛されなくていい人間」なんて一人も存在しないということも同時に強く思う。自分の中のこの感覚を、どう社会に還元していけばいいのか、そこがまだはっきりとつかめていないのだけれども。